瑞泉寺の由来

関白豊臣秀次公

慈舟山瑞泉寺は東海道の終着点、京都三条大橋のたもとにひっそりと佇むお寺です。
門は木屋町の繁華街通り沿いの、三条通りから南に下ってすぐの場所にあります。
ビルに囲まれたお寺ですが、一歩門を入っていただくと、静かな境内が広がっています。

ここは江戸時代のはじめまで、広い鴨川の河原の中州だった場所(当時鴨の河原は、今の河原町くらいまで広かったようです)。

この場所で、今から400年前、悲しい事件が起こりました。
瑞泉寺はそのことを伝えとどめるために建てられたお寺です。

桃山時代の悲しい事件を伝える秀次公縁起。
桃山時代の悲しい事件を伝える秀次公縁起

文祿4年(1595年)8月2日の昼下がり、時の関白豊臣秀次公のご一族の公開処刑が、ここ三条河原でおこなわれました。
秀次公は太閤秀吉公の甥ですが、実子に恵まれなかった秀吉公に請われて養子となり、二代目関白太政大臣を引き継いで、豊臣家の次世代をまかされた人。幼少の頃から数々の戦で武功をあげ、また戦乱の世で散逸した古典の収集にも力を注いだ人でもあります。

関白を譲られる前は近江八幡の領主として善政を敷き、領民に慕われてもいました(現在でも秀次公を慕って瑞泉寺にお参りに来る近江八幡の人が沢山います)。

そんな秀次公が悪逆の汚名と、謀反の罪を着せられ、切腹させられました。その理由には諸説あります。

一つは秀吉公の愛妾淀の君に秀頼が生まれ、秀次公は実子を盲愛する秀吉公からうとまれた、との説。また石田三成らの奸計によるものとする説、また秀吉のすすめる朝鮮征伐に秀次公が異を唱えたからとする説。そのいずれの要因も絡み合って起こった悲劇だったのかもしれません。

秀次公は文祿4年7月15日、秀吉公の命により高野山青厳寺において切腹。御首のみ京の三条河原に移され、その前に秀次公のご一族が引き出されて、次々と処刑されていったのです。

秀次公の御一族すなわち四人の若君と一人の姫君、そして側室として仕えた若く美しい女性たち34人の合計39人。三条大橋から多くの人が見守る中、一人ずつ処刑されては大きく掘られた穴に投げ込まれました。

「蔵を裂き、魂を痛ましめずということなし」

と目撃した京洛の衆の嘆く様子が瑞泉寺の縁起には書かれています。その後、遺骸が投げ込まれ埋められた穴の跡に大きな塚が築かれました。

頂上には秀次公の御首を納めた「石びつ」が据えられ、三条大橋を渡る人々への見せしめとしたのです。

寺伝によれば、この塚の位置に現在の本堂は建てられたとされています(当時の「石びつ」は現在の境内にあるご一族の墓域に移されて、石塔の中央部に奉安されています)。

秀次公とご一族が葬られた当時の塚。三条の鴨川の河原にありました。
秀次公とご一族が葬られた当時の塚
角倉了以さん。高瀬川開削と同時に瑞泉寺を建立してくれた人。現場命、って感じのお顔です。(通常は非公開)
角倉 了以(すみのくら りょうい)

それから16年後の慶長16年(1611年)。時の豪商角倉了以翁は運河として高瀬川を開削する工事をおこなっていました。その途中三条辺りにさしかかったとき、「塚」が荒廃している様子を発見。秀次公とそのご一族に以前から深く同情していた了以翁は、浄土宗西山派の僧「立空桂叔和尚」(後に瑞泉寺の開山上人)と計り、荒廃した墓域を整理するとともに、ご一族の菩提を弔う寺をその場所に建立することとしました。

山号は、高瀬川を往来する船に因んで「慈舟山」。
寺名は、京極誓願寺の中興教山上人が新たに秀次公に贈った法名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」からとって「瑞泉寺」としました。ここに瑞泉寺の歴史がはじまります

瑞泉寺はかつてこの地で起こった悲しい出来事や、高瀬川と共に始まる新しい京の町の誕生の記憶を止めているお寺です。瑞泉寺に参拝して、歴史の流れに心を馳せてください。