
知られざる幕末外交の舞台〜瑞泉寺に刻まれた 岩瀬忠震×橋本左内 会談の記憶〜

近年、瑞泉寺をめぐる新しい歴史が報告されました。幕末三俊に数えられる幕府の積極開国論を牽引する岩瀬忠震が、開国の勅許を得るべく朝廷説得のために京都に派遣された際、瑞泉寺を宿所とし、またその間に越前の志士・橋本左内の訪問を受けていたとの記述が発見されたのです。
「岩瀬鴎所日記」(早稲田大学図書館蔵)と呼ばれる岩瀬の日記に安政5年正月から3か月ほど瑞泉寺に宿泊していたとの記述があることを、解読を進める佛教大学歴史学部青山忠正教授と宮崎航平氏ら研究員が発見しました。この日記は瑞泉寺逗留中に書かれ、またその間の3月24日には幕末初期の志士・越前福井藩の橋本左内が訪問したことも記述されていました。岩瀬と橋本は時の将軍継嗣問題で志を共にする同志でありましたがここ瑞泉寺において初めて会談が実現したと言います。
特に橋本左内に関わる旧跡で現存する建物はほとんどなく、岩瀬・橋本が激動の時勢と救国策を語り合った場所として瑞泉寺は歴史的な遺跡だと言えます。令和5年には有志によって門前に「岩瀬忠震宿所跡・橋本左内訪問之地」の石碑が建立され、歴史愛好家たちに新たなロマンを投げかけています。
以下青山教授による解説です。

篤三郎忠震は、文政元年(1818)11月、旗本設楽貞丈の3男に生まれ、天保11年(1840)、旗本岩瀬忠正の養子となり、岩瀬家を継いだ。徳川家の官学である昌平黌に学んで、英才ぶりをうたわれ、官吏登用試験に合格した後、嘉永4年(1851)昌平黌教授となる。嘉永6年(1853)6月、ペリー来航の後、老中阿部正弘により、幕府の人材登用が進められた際、重職である目付(監察)に登用され、外交政策を審議する海防掛に任じられた。
岩瀬が、実際に外交交渉を経験したのは、安政2年(1855)下田方面で、ロシア使節プチャーチンとの間で、日露和親条約の修正にあたった時である。安政4年(1857)には、前年に赴任していたアメリカ駐日総領事ハリスの要請により、通商条約の締結が計画される中で、下田奉行井上清直とならび、交渉全権に就任した。

この時までに、首席老中堀田正睦をはじめ、岩瀬を含む大目付・目付ら幕府の中堅役人層は、日本を、欧米諸国が主導する国際関係の中に参入させる方針を採るようになっていた。
いわゆる「積極開国論」である。安政4年12月には、ハリスとの交渉の結果、通商条約の草案が確定した。

※一般公開はしておりません。
いっぽう、同じ頃、岩瀬は、実子のない13代将軍家定の跡継ぎに、一橋慶喜(のち15代将軍)を送り込もうとする運動にも、積極的に加担していた。岩瀬と同じ立場で運動していた有志の1人に、越前松平家(越前藩)の当主、松平慶永がいる。慶永が信頼する家臣の橋本左内は、上京して、朝廷の有力公卿たちを説得し、将軍の跡継ぎとして、一橋慶喜を指名する内々の勅書を降してもらうよう、政治工作にあたっていた。
志を同じくする岩瀬と橋本は、それまで面会する機会がなかったが、岩瀬が京都を出立する前日の3月24日、橋本が瑞泉寺を訪問し、ここに両者の会談が実現した。この瑞泉寺が、歴史的な遺蹟として、記念されるべき意味を持つのは、以上の経緯による。
岩瀬に続き、堀田正睦も4月20日、江戸に帰り着くが、将軍家定は、23日には彦根井伊家(彦根藩)の当主、直弼を大老に任じ、堀田らの「積極開国論」に賛同しない方針を示し、また自身の跡継ぎも、紀伊徳川家の当主、慶福(のち14代将軍家茂)とする腹案を、すでに固めていた。

さらに、7月から9月にかけ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に、同様の通商条約が調印された。この間に、外交政策を担当する正規の幕府部局として、7月8日、外国奉行が新設され、岩瀬は、初代奉行5人の1人に任命されている。なお、堀田は6月23日、老中を罷免された。
令和元年(2019)5月1日
佛教大学歴史学部歴史学科教授 青山忠正 撰文
書道家 松本笙絢 題字
慈舟山瑞泉寺 建立
※なお、石碑南面の「福井藩士 橋本左内訪問之地」における「福井藩士」については、橋本左内本人が自称していることから、今回、採用させていただいた。
岩瀬忠震と橋本左内が分かるQ&A
岩瀬忠震は、江戸時代の終わり頃(幕末)に幕府に仕えた旗本(徳川家の家来)です。外交官としてアメリカをはじめオランダ、ロシア、イギリス、フランスなど列強国との重要な条約(修好通商条約)を結ぶときに中心的な役割を果たしました。当時列強国は中国なども植民地にしていましたが、日本がそうならなかったのは岩瀬など当時の幕府の役人たちが優れていたからだと近年の歴史学では言われています。
橋本左内は、越前藩(現在の福井県)の家来で、とても才能があった人です。若い頃から学問に優れていて西洋の学問を学んで後に福井藩主松平慶永のブレーンとなり、新しい日本の在り方を模索しました。
日本とアメリカの間で結ばれた、貿易などを始めるための大切な約束です。それまで日本は長い間国を閉ざしていましたが(鎖国)、アメリカから黒船と呼ばれる軍艦がやってきて開国を迫られました。そこから幕末の動乱が始まります。岩瀬忠震は、この条約の交渉を指揮した一人でした。
幕府の役人の一部(岩瀬忠震や老中堀田正睦など)は、「積極開国論」、つまり欧米諸国がリードする国際社会に日本も加わっていくべきだと考えていました。ただ幕府や諸大名の間では黒船により屈辱的にはじまった外国との交流に否定的な意見も多く、その意見は天皇と朝廷を中心に高まっていきました。
岩瀬忠震は、天皇から日米修好通商条約の許可(勅許)をもらう交渉のために、老中の堀田正睦と一緒に京都に3か月間滞在しました。その間瑞泉寺を宿泊所としたのです。一方、橋本左内は、この混迷する時代の次の将軍は優秀な一橋慶喜(後の15代将軍)にするべきだというミッションを帯びて、朝廷に対して推薦してもらうための政治的な働きかけをしていました。この将軍継嗣について岩瀬と橋本は同じ意見を持っていました。
天皇や朝廷は、欧米の国々を「夷狄」、つまり日本よりも文化が遅れた野蛮な国だと考えていたため、条約の許可を与えることに反対しました。朝廷のこの考え方は「尊王攘夷(天皇を尊び、夷狄を打ち払うべし)」というスローガンでこの後全国に広まって行き、多くの人がその運動に身を投じ、ついには幕府を終わらせて天皇中心の新しい国(明治政府)を作るに至ります。
志を同じくする二人ですが、これまで会う機会がありませんでした。岩瀬忠震が京都を出発する前日の3月24日に、橋本左内が岩瀬忠震の宿舎であった瑞泉寺を訪ねて初めて会談が実現しました。瑞泉寺の建物は江戸の中頃からは大きく改築などされていないので、岩瀬と橋本が会ったと思われる座敷などは当時と変わらない風情を感じることができます。
新しく大老になった井伊直弼が、アメリカのハリス公使からの強い要求を受け、目の前の危機を避けるために、やむを得ず天皇の許可がないまま条約を結ぶことを認めました。当然反対派の人々が声を上げましたが井伊はそれに対して弾圧を行いました(安政の大獄)。多くの人々が処刑されその中には橋本左内もいました。ここから幕末の混迷は深まって行きます。
岩瀬忠震は、大老の井伊直弼とは意見が会いませんでしたが、外交の人材に乏しい幕府の中で新しく設置された外国奉行に任命されます。外交政策を担当しますが次第に別の役職に転任させられ、最終的には役職を解かれました。桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後も岩瀬は政界に戻ることなく、病気で亡くなりました。明治時代のジャーナリストには、その死を「憤死(ふんし)」(怒りのあまり死んだ)と評した人もいました。
この石碑は、佛教大学歴史学部の青山忠正教授が文章を書き、書道家の松本文翁が題字を書いて、令和元年(2019年)5月1日に建立されました。