瑞泉寺縁起

秀次事件とその後瑞泉寺が建立されるまでのストーリーが絵とともに語られています。
画帳で、4巻から成り、京都市歴史資料館に寄託。

  • 巻一/秀吉と秀次の誕生から天下取り、秀次の出世、そして秀頼誕生と秀次謀叛の嫌疑まで。
  • 巻二/関白位を剥奪された秀次が高野山へ上がり家臣らと自刃するまで。
  • 巻三/秀次の首が京に運ばれ一族の処刑とその後に塚が築かれるが、後に荒廃するまで。
  • 巻四/角倉了以の発願により「塚」の跡に御一族墓域と瑞泉寺が建立され、その後天和三年に寺が再建整備されたことまで。

この絵縁起の成立年代は、天和三年(1683年)以降ですが確かには不明です。
ちなみに、三条河原での一族子女の処刑を描写する部分は太閤記の一種である『聚楽物語』を底本に描かれたものだと思われます。

巻一より、聚楽第図。江戸期に聚楽第が描かれたものは少なく、そういう意味でも瑞泉寺縁起は貴重なものだとのこと。
聚楽第は、秀吉が作った京都での政庁。
天正十九年(1591年)秀次公は秀吉より関白位と聚楽第を譲られ、正式に豊臣家の後継者となりますが、わずか2年後にここを追われ自害に至ります。
その翌年、太閤秀吉はなぜか聚楽第を跡形もなく破棄します。
巻二より、文禄四年七月十四日夕刻、高野山青巌寺に蟄居中の秀次公に『切腹命令』を伝える太閤の上使、福島正則、高原直高、池田秀男。
秀次公はそれに対し、抜刀して切腹の覚悟を示しています。
写真では見えませんが右側では三千余騎の太閤の軍勢が高野山を包囲している図が描かれています。
巻三より、三条河原で秀次公の御首の前に五名の子と側室ら三十余名の女性が次々と引き出されまさに処刑されんとするシーン。
引導を渡す大雲院の僧・貞安上人(生前秀次公と親しかった)が描かれています。処刑を見届ける武士たちの涙する姿と何も知らない幼子のあどけない表情が印象的です。
『この地に、大穴を掘らせ、人々の死骸を同一穴にとり埋め、その上に広大の塚を築き、石を建つ。
この石、中空うつろ(虚)にして公(秀次)の御首は此の石中に納めたり』/瑞泉寺縁起
投げ込まれる白い着物。よく見ると白い腕が描かれています。
巻四より、事件より16年後、慶長十六年にはじまる高瀬川開削工事を法衣姿で指揮する角倉了以。
御一族の塚が鴨川の洪水で荒廃した姿に接し、秀次公御一族追悼の寺の建立を決意します。
壊れた塚の側に新たに墓所が建てられ、現在に至る『六角形の墓石』が建立されています。
開山上人や僧侶、民衆が工事に楽しげに参加する姿も見えます。
新しい墓所の側には瑞泉寺の創建を意味する小さな「庵」が造られ、後にこの庵が現在の規模の堂宇になります。それはこれより70年後の天和三年のこと。

写真ではお伝えしきれませんが、この絵縁起、人物一人一人の表情やしぐさなど、細部までよく描かれていて、見る人の心を捕らえます。
秀次事件に対する理不尽さ、悲しみ、憤り、そして瑞泉寺建立に見いだされた希望。絵師たちの筆に込められた気持ちが今に伝わってきます。