第3回 奈々福姐さん浪曲会@瑞泉寺
浪曲師 玉川奈々福
瑞泉寺に眠る悲劇の姫君「駒姫様」を浪花節で語る
竹内涼『駒姫-三条河原異聞-』(新潮社)より
大変申し訳ありませんが、定員に達しましたので
申し込みは終了させていただきました。
どうぞご理解の程よろしくお願いいたします。
●日時 2026年1月18日(日) 14時半開場、15時開演、終了予定17時 ●場所 京都瑞泉寺本堂
●出演 玉川奈々福(浪曲師) 広沢美舟(曲師)
●入場料 3500円 限定80席(イス席)
●予約 申し込みは終了いたしました。
※全席指定・完全予約制・予約先着順
※メール返信にて座席番号をお知らせします。キャンセルの場合は早めにお知らせください。
※席が埋まり次第予約を終了させていただきます。早めにご予約ください。
玉川奈々福が語る戦国の悲劇。オリジナル浪曲『駒姫様』
今をときめく浪曲師・玉川奈々福さんの瑞泉寺での独演会3回目。今回は、瑞泉寺に伝わる戦国の悲しいものがたりを奈々福さんのつくりおろしオリジナル浪曲で語っていただきます。令和8年度の大河ドラマ「豊臣兄弟」。強い絆で天下統一という偉業を成し遂げた豊臣兄弟の奇跡を描くサクセスストーリーですが、その影で悲しい運命を強いられた女性たちがいます。その代表とも言えるのが、駒姫様。東国一の美少女と言われた駒姫は、秀次事件に巻き込まれ三条河原で処刑されてしまいます。瑞泉寺はその跡地に建てられたお寺。豊臣秀次公と御一族の菩提を弔うお寺としてこの戦国の悲劇を今に伝えています。玉川奈々福さんに駒姫の物語を語っていただき、駒姫はじめこの地で亡くなった女性たちの追善としたいと思います。
瑞泉寺に伝わる秀次事件の物語をパネル展示
「秀次公と御一族の御影軸」(コロタイプ:レプリカ)や「秀次公縁起」の拡大パネルなど、寺宝として瑞泉寺に伝わる秀次事件を伝える絵図を展示。瑞泉寺に伝わる戦国の悲劇をビジュアルで感じていただけます。また会場となる本堂には角倉了以像も安置。普段一般公開されていないお像にご参拝いただけます。
住職による秀次事件と瑞泉寺の解説、そして御一族追善の読経
奈々福さんの駒姫様浪曲の前に、豊臣秀次公のこと、駒姫様はじめ御一族のこと、そして瑞泉寺の建立の縁起など、より浪曲を楽しんでいただけるようにポイントを住職が解説します。浪曲終了後は秀次公と御一族追善のためのお経をあげて、参加者の皆さんと共に御一族に手を合わせてお開きとしたいと思います。
駒姫様御朱印発行
住職の描いた駒姫様の御朱印をプレゼント(※御朱印帳への記帳はいたしません)。駒姫様御朱印はこの時だけの限定版です。
タイムスケジュール
15:00 開演 奈々福さん浪曲1 おたのしみ
15:30 住職解説
15:50 休憩
16:00 奈々福さん浪曲2 駒姫様
16:45 住職による御一族追善のお経
17:00 終了
演者
浪曲師 玉川奈々福

神奈川県横浜市出身。浪曲師・曲師(浪曲三味線弾きのこと)。
三波春夫先生と同じ7月19日生まれ。
1994年10月、日本浪曲協会主宰三味線教室に参加。
1995年7月、二代目玉川福太郎に入門。三味線の修行をしていたが、師の勧めにより、
2001年より浪曲師としても活動。
2004年「玉川福太郎の徹底天保水滸伝」全5回、
2005年「玉川福太郎の浪曲英雄列伝」全5回をプロデュース、全10回公演がすべて大入り満席となる。
2006年12月、芸名を美穂子から奈々福に改め名披露目。
さまざまな浪曲イベントをプロデュースする他、自作の新作浪曲や、長編浪曲も手掛け、他ジャンルの芸能・音楽との交流も多岐にわたって行う。かに座のO型。
平成30年度文化庁文化交流使として、イタリア、スロベニア、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、キルギス、ウズベキスタンの七か国で公演を行った。中国、韓国でも公演を行った。第11回伊丹十三賞受賞。
玉川奈々福オフィシャルサイト https://7729.jp
曲師 広沢美舟(ひろさわ・みふね)
千葉県佐倉市出身。義太夫から三味線に興味を持ち、偶然入った木馬亭にて師の音締の虜となり、通ううち浪花節のおもしろさに魅せられる。2015年5月に日本浪曲協会主催の三味線教室に通い、翌月沢村豊子に入門。浪曲師を腹で支え、描きたい世界をともに描ける、活かす曲師になるべく奮闘努力中。
・駒姫様

瑞泉寺にはお伊万の方と伝わる。山形城主最上義光の娘。東国一の美少女と謳われ、また教養も兼ね備えた才色兼備の姫君として山形では今も親しまれている。奥州での反乱鎮圧に訪れた豊臣秀次公にみそめられ、ぜひ側室にと乞われて後に上京。秀次公を豊臣政権の後継者として見込んだ最上義光の思惑があったと言われる。駒姫、15歳。お目見えもしないまま秀次事件に巻き込まれ三条河原で処刑されてしまう。瑞泉寺に伝わる辞世の句は、『罪なき身を世の曇りにさへられて共に冥土に赴くは五常のつみもはらひなんと思ひて 「罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき[2]」』。娘の死の知らせを聞いた母も14日後に死去。最上義光の憤激と悲嘆は激しく、後に関ヶ原の戦いで反豊臣の東軍に属することになる。
・豊臣秀次公

秀次公は秀吉の甥にあたる(姉ともの長男)。秀吉の数少ない親族として幼少の頃から宮部継潤や三好康長ら戦国武将に人質として養子に出される。特に堺の文化人に通じていた三好康長の養子時代に文化的素養を身につけたとされる。その後秀吉について天下統一の数々の戦に武将として参戦。小牧長久手の戦では徳川家康に敗走するもその後は武功をあげ、実子に恵まれない秀吉の後継者と目される。秀吉の天下統一の後二代目関白を譲られ正式に豊臣政権の後継者となるが、その直後秀吉に実子が生まれたことから疎まれ始め、ついには謀反の疑いをかけられて高野山に蟄居、切腹に至る。秀次公は「武」のみならず、源氏物語を愛読し五山文学を復興、自身も和歌を良くするなど文学・古筆に通じていた。また利休の台子七人衆に数えられ、能を嗜み史上初めての謡曲の注釈書「謡抄」を編纂するなど新しい芸術にも関心のある人であった。領地の近江八幡では善政を布き今も名君として親しまれている。
・秀次事件と瑞泉寺

秀次公が関白となって2年目の文禄2年、もうできないと思われていた秀吉に実子・秀頼が生まれる。ここから秀次公と秀吉の関係は崩れ始め、秀次公には様々な悪い噂が流された。そして文禄4年7月、謀反の疑いを晴らすべく伏見城の秀吉を訪ねた秀次公は、蟄居を命ぜられそのまま高野山に幽閉、7月15日に切腹。詳細は歴史の闇に阻まれて今も真実はわからない。だが悲劇はそこで終わらず、その一月後、秀次公の妻子と側室39名が三条河原で処刑されるに至る。秀次公蟄居と同時に聚楽第にいた39名は亀山城に移され監禁。8月2日、死装束にて牛の大八車に乗せられて市中を巡ったのち後三条河原に引き出され、据えられた秀次公の御首を前に、子どもから順番に処刑されていった。処刑は公開で行われ正午から午後四時頃まで続いたと言われる。遺体は遺族に渡されることなくその場に穿たれた大きな穴に投げ込まれ、その上には巨大な塚が築かれた。塚の上には秀次公の御首が納められた「石の首びつ」が据えられたが、その後顧みるものも次第に少なくなったという。事件から16年後の慶長16年、高瀬川開鑿工事を命ぜられた豪商角倉了以は三条河原まで掘り進んだ時、荒れ果てた塚を見咎めこの地をこのままにしておいてはいけないと寺院を建立した。それが瑞泉寺の始まりである。以来430年、瑞泉寺は秀次公と御一族の菩提を弔い、この悲劇を現代に伝えている。
