寺宝紹介その4
最後の寺宝紹介は、今回展示の中の目玉(いっぱい目玉があるんですが)
瑞泉寺伝来表具裂(きれ)、通称『瑞泉寺裂』です。
京都市指定有形文化財に指定されていて、
京都国立博物館に寄託しております。
事件に連座した秀次公の子女妻妾ら三十余名の辞世の和歌懐紙を
彼女たちが着用していた小袖などの裂で表装したものです。
左から
⚫︎処刑十七番 お美屋の前 十三歳(側室「一の御台」の息女)
おもはずも君のおともに
候するにつけて
秋といへば
まだいろならぬ
うらはまで
さそひゆくらん
しで(死出)の
やまみち
⚫︎処刑十一番 お伊万の方 十七歳(出羽国最上家息女 通称駒姫)
罪なき身を世の曇りに
さへられて 共に冥土に
おもむくは 五常の罪も
はらひなんと思ひて
罪をきる弥陀の
つるぎに
かかる身の
なにかいつつの
障りあるへき
⚫︎処刑七番 お佐古の前 十七歳(十丸君の生母 北野神社社家 松梅院娘)
常に観音を信心せしかば
さぞや冥土も
大悲の光あらんと頼もしく
ひとすぢに
大悲大慈の
影たのむ
こころの
月のいかで
くもらん
⚫︎処刑五番 お辰の前 十九歳(百丸君生母 尾張星崎城城主山口祥雲娘)
我設けし公達の
うたれさぜ賜ひしを
見参らせて
妻(夫)や子に
さそはれて行く道なれば
なにをかあとに
おもひ
のこさん
どれも、胸がつまるようなお歌です。
絢爛豪華な刺繍が辞世の句をひき立てています。
傷みも少なく、美しい色彩がそのままに保存されておりました。
次に世に「瑞泉寺裂」といえば「辻が花染め」
これは三幅あります。
側室たちの辞世の句ではなく天皇からの綸旨の表装です。
今回展示しているのは、後西天皇(即位.明暦元年〜一六五四年)綸旨
当山第四世住職『桂屋上人』が「勅許の色衣」の着用許可を朝廷より
いただかれた証書です。
この方は創建から七十年たって荒廃していた瑞泉寺を再建された
中興の人として知られています。
上の方の紫色の部分が『辻が花染』。
400年前の色彩がきれいに残っています。
辞世和歌は二十幅あり、辻が花は3幅あります。
いつか二十三幅がずらりと並ぶ姿を見たいですね。
そしてその真ん中には秀次公縁起全編が展示され、
復元された秀次公御真筆の扇面が展示されている。
そんな展示会場を夢想してしまいます。
京都国立博物館さん、ぜひ(^^)
寺宝の紹介その3
- 2016年11月3日|
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特別公開もいよいよ後半戦。
毎日行列ができるほどの拝観の方が訪れ、
このような人数を寺内に迎え入れるのは
創建以来はじめてのことと、
日々いろいろな意味でドキドキしております。
さて、寺宝紹介3回目は「瑞泉寺縁起」。
秀次事件とその後瑞泉寺が建立されるまでのストーリーが
絵とともに語られています。
画帳で、4巻から成り、京都市歴史資料館に寄託。
巻一/秀吉と秀次の誕生から天下取り、秀次の出世、そして秀頼誕生と
秀次謀叛の嫌疑まで。
巻二/関白位を剥奪された秀次が高野山へ上がり家臣らと自刃するまで。
巻三/秀次の首が京に運ばれ一族の処刑とその後に塚が築かれるが、後に
荒廃するまで。
巻四/角倉了以の発願により「塚」の跡に御一族墓域と瑞泉寺が建立され、
その後天和三年に寺が再建整備されたことまで。
この絵縁起の成立年代は、天和三年(1683年)以降ですが確かには不明です。
ちなみに、三条河原での一族子女の処刑を描写する部分は
太閤記の一種である『聚楽物語』を底本に描かれたものだと思われます。
巻一より、聚楽第図。江戸期に聚楽第が描かれたものは少なく、
そういう意味でも瑞泉寺縁起は貴重なものだとのこと。
聚楽第は、秀吉が作った京都での政庁。
天正十九年(1591年)秀次公は秀吉より関白位と聚楽第を譲られ、
正式に豊臣家の後継者となりますが、
わずか2年後にここを追われ自害に至ります。
その翌年、太閤秀吉はなぜか聚楽第を跡形もなく破棄します。
巻二より、文禄四年七月十四日夕刻、高野山青巌寺に蟄居中の秀次公に
『切腹命令』を伝える太閤の上使、福島正則、高原直高、池田秀男。
秀次公はそれに対し、抜刀して切腹の覚悟を示しています。
写真では見えませんが右側では三千余騎の太閤の軍勢が
高野山を包囲している図が描かれています。
巻三より、三条河原で秀次公の御首の前に
五名の子と側室ら三十余名の女性が次々と引き出され
まさに処刑されんとするシーン。
引導を渡す大雲院の僧・貞安上人(生前秀次公と親しかった)が
描かれています。処刑を見届ける武士たちの涙する姿と
何も知らない幼子のあどけない表情が印象的です。
『この地に、大穴を掘らせ、人々の死骸を同一穴にとり埋め、
その上に広大の塚を築き、石を建つ。この石、中空うつろ(虚)にして
公(秀次)の御首は此の石中に納めたり』/瑞泉寺縁起
投げ込まれる白い着物。よく見ると白い腕が描かれています。
巻四より、事件より16年後、慶長十六年にはじまる高瀬川開削工事を
法衣姿で指揮する角倉了以。
御一族の塚が鴨川の洪水で荒廃した姿に接し、
秀次公御一族追悼の寺の建立を決意します。
壊れた塚の側に新たに墓所が建てられ、
現在に至る『六角形の墓石』が建立されています。
開山上人や僧侶、民衆が工事に楽しげに参加する姿も見えます。
新しい墓所の側には瑞泉寺の創建を意味する小さな「庵」が
造られ、後にこの庵が現在の規模の堂宇になります。
それはこれより70年後の天和三年のこと。
写真ではお伝えしきれませんが、この絵縁起、
人物一人一人の表情やしぐさなど、細部までよく描かれていて、
見る人の心を捕らえます。
秀次事件に対する理不尽さ、悲しみ、憤り、
そして瑞泉寺建立に見いだされた希望。
絵師たちの筆に込められた気持ちが今に伝わってきます。